六花の庭

いろいろ気ままに生えてくる

観劇メモ:『偏執狂短編集Ⅳ 赩の章』

久しぶりにお芝居の感想を備忘録として掲載します。というか、ツイッターに流すつもりが長くなり過ぎたのと、内容に触れずに言える事が少なかったため、こちらにまとめる事にしました。

サンモールスタジオにて上演された、Voyantroupeによる公演『偏執狂短編集Ⅳ 赩の章』の感想です。

観覧日は6月10日。以下、ネタバレを含みますのでお気をつけください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『Romanohbitch』

 


クラウドファンディング限定の特別公演。

元々は偏執狂短編集Ⅰで上演された作品らしく、Voyantroupeの原点とも言える作品なのだとか。

アンドレイ・チカチーロの事件から着想を得た話しらしく、チカチィロやツルゲーネフといった実在の人物の名前を持つ人物が登場するが、その経歴や人格など、史実とは違う人物になっている。

「今」興味を持っている事以外はすぐに忘れてしまう私は、触れた知識量が活かされず常に歴史には疎いのだが、元のチカチーロについての著書などは何度か読んでいる。時代背景や捜査の在り方がどういうものでKGBが介入して…などはそのままのバックボーンで流用して観ることができた。

話の流れはそう肩に力を入れなくても自然と引き込まれる。

アイボリーのスーツにギブソンタックという出で立ちのナタリー捜査官の役を、お目当てのはるかぜちゃんが演じていた。心優しくも凛とした様は、春名風花さんにストレートにはまり役。台本の台詞だけ見た時と実際に演技を見た時の印象は違う。純真さと大人っぽさが同居しいて素敵だった。

そして、ステージをヒタヒタと移動する事件の被害者(故人)ラリッサ役、紅日毬子さんの、「すでに存在しない者の存在感」この傷ましい演出は効いており、息を潜めて見入っていると、大切な人を無惨な形で失った人の気持ちがわかる気がした。

丸山翔さんは超然としていたり、お気楽で明るい役のイメージが強かったが、ここではいろんな感情のせめぎ合いを見せてくれる役だった。

窪田裕二郎さんの役名はミスリードの可能性も考えたが、徐々に照明が光度を増して嬉々として語り出したときには「きたー!」と思ったし、そこからの展開の速さもいい。かなりスマートでスタイリッシュなキャラクターになっていた。

この後に本来の、弱みだらけの『俺はアンドレイ・チカチーロ』を観られたのは、虚構とリアルのコントラストを感じられて良かった。

でも虚とリアルは一筋縄ではいかない。創作の中にリアリティを感じるように、そのまた虚の中にリアルがある。連続殺人など起こり得ないという公式見解がどんな人間に都合が良かったのかを思うと、ifを考え震えずにはいられなかった。

 

 

 

『俺はアンドレイ・チカチーロ』

 


観ればわかるが、偏執狂短編集がなぜ観客の心を掴むのがという根幹がわかる作品になっていた。

確かに実在した連続殺人鬼の話しなので、目を背けたくなるシーンは幾度もある。けれど何故観ずにいられないのかというと、それは結局、殺人鬼という枠に収まりきらない一人の男の生に渦巻く孤独や苦悩や渇望が圧倒的存在感を放っているからだ。

アンドレイ・チカチーロ役は2人。

青年時代を田口真太郎さん。

壮年時代と語りを井口ジョージさん。

それぞれに見所と心を抉るシーンがたくさんあるのだが、同じく年代別のターニャ役2人(山本柚月さんと芹澤あいさん)と4人で表現されるシーンがやはり圧巻。壮年期のアンドレイがターニャと再会するその場面では、通常は一度に受け止められるはずのない感情どうしが立ち現れ、一つの舞台上で展開される演出と演技には言葉を失う。思い出の中の自分とターニャに幾度もナイフを切りつけるアンドレイを観ていると、涙は流れなかったけど、目が熱くなった。

失ったのではなくて、「手に入らなかったんだ」と強く感じられてしまって。それが単に失った事よりも空虚で、悲しくて…なんでだろう…なんでだろう…と。

このシーンも含めて構成の力だと思うのだけど、全編通して遣る瀬無さのほうが強く、殺人鬼を主人公にしているのに嫌悪感が続かないのは凄い。

とはいえ、スクリーンに映し出された井口ジョージさんの表情が本物のチカチーロのあの表情と完全に一致した時は背筋がゾクっとした。

これを再現できるなんて。

捜査に携わるザナトフスキー(窪田裕二郎さん)とハイバコフ(平良和義さん)とイッサ(邑上笙太郎さん)のシーンで、イッサが実は切れ者とわかった時のザナトフにハイバコフが言う、「これがソ連、だということだ」

想像を掻き立てられる台詞だ。KGBのイッサは抜け目がないのかもしれないけれど、ピリピリした捜査陣の中で、空気を緩和する人柄が滲み出ていた。この3人のやりとりをもっと見たかった。

事件が解決しても、殺人鬼の悲劇は殺人鬼の人生で幕を閉じない。

里仲景さんのフィーニャ。アンドレイの妻。その幸せが残酷な形で壊されるとはわかっていても、観ているのが辛くなる場面がやってくる。

そして追い詰める側に転じて負の方向への相乗効果を発揮したシュチェシェンコ先生役の川添美和さん。彼女は共感できない人物像でも、観客の一部分と繋げてしまう。故に、共感させてしまうだけの演技をする人なのだけど、今回の役はそもそも被害者であるだけに、復讐の呪詛を吐くに至るラストはアンドレイを観る以上に観客を陰鬱な気持ちにさせたはず。

これを読んでいるあなたは、殺人鬼の殺人鬼以前のちっぽけな人としての苦悩や切望や生きづらさを「わかってしまう」感覚自体を不健全だと思うだろうか?結果的に彼らは殺人鬼になったのだから?

だったら、動機なんて知ろうとせず、理解できないで済ませたほうが健全かもしれない。それを知ると言うことは、推し量る物差しを自分が持っている事になるのだから。

「確かに、どんな理由も人を殺す言い訳にはならないと思う。どんな境遇でどんな時代にどんな辛酸を舐めても、人を殺さずに生きて行く人はいる」

そう思う。正しい。でも、この「人を殺さずに生きて行く人」は言葉だ。

簡単に自分の人生を、他人の意見の上の言葉にされてるその人だって、1日、1日を実はギリギリで逸脱せずに生きているのかもしれない。言葉にならぬ様々の渦の中で。

そして、私達が悪気なく軽い気持ちで笑ってしまうほど、その姿は何も知らない他人の目には、滑稽に写っているのかもしれない。

そう疑問を持ち続けているから、私は多くの人に、この演目を観てもらいたかった。

観ている最中はあれほど喉も息も詰まりそうな過剰さだったのに、個人的には赩の章の中で、一番再演してほしいと思えるほどの演目だった。

あと、宇野正玖さんの脚本がさ、「この状況でこんな話しで、この台詞を言わせるか!」っていう秀逸さに満ちてるんだよね…

 

 

 

切り裂きジャックたるために』

 


まさかのコメディタッチ?と思いきや…

本物ジャック役は事前発表にもあった通り、宇野さんから予定を変更しての常川博行さん。紳士然とした出で立ちで現れ、自身の殺しへのポリシーを語る。 

物語の構造と設定上、普通の主人公的立ち位置とは少し違う。自身が身に覚えのない5人目の殺人まで切り裂きジャックの仕業とされている事への不満を語るジャックは、その5人目の殺害事件の犯人を突き止め、切り裂きジャックの称号を与えるに足る人物を見極めるために、犯行を再現させてみる…という趣向らしい。

本編とは別のところで小ネタが効いてていい。ニコラスさん(笑)いや、モンタギューだけど。私も実は根来さんはニコラス・ケイジ似ってインプットしてたから。あと里仲さんの役が可愛い。エアカウンターに腕を載せる仕草とか。

さて、集められたジャック候補者と娼婦役によって幕を開ける物語。

ジャックは集められた者達について、「どいつもこいつもミスキャストだ」言い放つ。実はこの台詞はかなり重要だと思う。

てっきり切り裂きジャックのポリシーの話しかと思ってたら、話しが進むたび、登場人物それぞれの弱さや美醜とポリシー、様々なものが露わになり、それが、私達それぞれの中の目を背けたくなる部分を掴んで強引にステージに引き寄せてしまう。共感と呼べるほど緩くない。

特に紅日毬子さんと安井茉穂さんの娼婦2人によるエピソードは、悲しみも遣る瀬無さも底抜けで壮絶だった。

殺人鬼に美醜、殺しのポリシーがあるように、娼婦達にもそれに飲み込まれないほどの別の美醜、ポリシーがある…あったのかもしれないのだ。死者の思いは生者の手の中に置かれてしまうけれど。

このお話しの本物ジャックが「認めるキャスト」になってしまうってことは、「殺人鬼の手の内に収まってしまう。あるいは誰かの中の弱者のイメージのみに生を集約されてしまう」という事に他ならないのかもしれない。

私達は美醜全てを持つ人としての豊潤さを歪めようとする他者の願望に対しては、とことんミスキャストでいいのかもしれない。これは「都合のいい物語」という暴力から、解放してくれる物語なのだと思う。

 

 

 

『ウェストご夫妻の偏り尽くした愛情(闇)』

 


(風)バージョンも観たが、同じ筋書きでもこれほど別物になるのは凄い。ものは言いようというけれど、「芝居は観せよう」だなぁと実感。

この幽鬼のような西礼司役を演れるのは、山本恵太郎さんしかいなかっただろう。

曰くありげな笑みを湛える東国森拝一役の丸山翔さんは去年も同じ役名で演じたが、そのキャラクターは別人と言って良い。

街のご近所さん達もどこか不気味で、皆がお葬式みたいに黒い服を着ていて、圧倒的雰囲気だ。

そんな中に唯一赤いドレスを着た西薔薇絵役の春名風花さんがいる事によって、より存在が引き立って見えた。風花さんの「牛肉じゃ、ないんだ…」の台詞がとても好き。

偏執狂短編集の薔薇絵さんは好き。(風)バージョンの薔薇絵さんも去年の薔薇絵さんも見たけど、どれもいい。女だからそのキャラクターに思うことがいろいろあるから。

それとBBQのタコ足…タコは具材なのに、その存在感といい、扱われ方といい、加々見千懐さん演じる方角さんの心情を表すのに立派なアイテムと化している。フランス映画に出てくる変なオブジェとかを彷彿とさせる歪さ。

とにかく異端な方向で攻めてる感じがした。

ダークで不気味で、でもどこかホラー漫画的(漫画にするなら伊藤潤二さんとか楳図かずおさんとか)ライティングの色味も去年とは、まるで別世界。言葉が抑えられ、より感覚で観る内容になっていた。皮膚感覚かしら?薔薇絵を賛美する表現が去年の「美しさへの賛辞」から、「べたぺたさわる」(なんか可愛いw)という台詞に変わっていたように。

実を言えば、この(闇)の、あの世じみた青暗いライティングと登場人物全員に通常の生気とは違う存在感を感じられた事で、「(闇)の登場人物達は全員あの世の住人なのでは…⁈」と思えてしまって(笑

だから、ご近所の住人達も、去年のアットホームな様相とは打って変わって不気味なのか、とか。

エストご夫妻はあの世に逝っても相変わらずで、魂だけになっても他の魂を「弾き切る」罪深さ…?そんな感じがしてむしろ去年より振り切れてる。

そして、この演目を赩の章の最後に観た事によって、「赩の章の偏執狂は幽霊ないしは亡霊のようだ」という印象が強まり、それによって逆照射的に「肉体を持って生きていた感覚、感情、欲望、その生々しい生の咆哮」が迫ってきた。

幽霊ないしは亡霊。

切り裂きジャックはジャック自身の台詞からも「まさにそういう存在」として語り出すし、ロマノヴィチにおいての"真犯人"も当時のソ蓮の目隠しされたシステム下で存在するはずのない者にされたという意味では透明な存在と言える。そして、『俺はアンドレイ・チカチーロ』の主人公チカチーロの殺人鬼としての存在もまた、自然とこれに準ずる。チカチーロについては、それこそ在るのに欠けているような自分の肉体の一部をずっと求めていたとも言えるでしょう。

とは言え、この幽霊や亡霊としての印象ばかりを強めて見てしまうと、それが比喩的な意味であっても設定であっても、作品をかえって矮小化してしまうかもしれないので、解釈よりも観ていた時の言語化される前の感覚をより大切にしたい。当たり前だと思って身体に馴染んでいる感覚や価値観を揺さぶられる部分、言葉にできない部分こそ、また足を運びたくなる理由、直に偏執狂短編集を目撃する醍醐味なのだから。

DVD化が楽しみ。

 

f:id:hyogokurumi:20180620173836p:image